私と動物との歴史

このサイトの運営をしている 木村あゆみ です。うさぎ飼い歴10数年をはじめ、動物や医療などに関わった経歴や、なぜこのサイトを立ち上げたかなどについて、以下にまとめました。

緑の枠内が大まかな内容です。このページにある4つの緑の枠内だけを読めば大体のことがわかります。詳細は枠外に書いています。

うさぎ飼い歴 約14年

これまでに飼ったうさぎは3匹です。初めて飼ったのは私ではなく妹で、およそ25年前のこと。2年という短い命でした。その後はなのはっちを迎えました。なのはっちを飼い始めたのは初代うさぎから12年後。途中、結婚したときに夫が飼っていたうさぎ(らんさん)も加わり、一時期なのはっちとらんさんの2匹を飼育していました。

以下、細かい内容ですのでご興味のある方だけ読んでください。

飼っていた初代うさぎ よしこさん 享年推定2歳

ずっと昔、妹が「ミニうさぎ」を飼っていました。まだ私も妹もまだとても若かったころです。そのとき妹は、ありがちな「始めだけ面倒見て、あとはほったらかし」という状態でした。

妹が世話をしないので、私がその後世話をしていたのですが、当時はうさぎ飼育の知識もないし、ペレットはありましたが牧草なんてどこにも売ってないような時代でした。ペレットにしても、うさぎの健康を考えた商品ではなく、人間の都合優先のペレットでした。

飲み水なんてあげたことなくて、生野菜で水分を与えていました。ケージも鳥のケージを使用していました。確か、うさぎ用のケージなんて売っていなかったように思います。

案の定、その1代目うさぎは2年ほどで亡くなりました。その当時私は実家から出ていたので、うさぎが死んだという知らせを父からの電話で知りました。

二代目うさぎ なのはっち 享年11歳4ヶ月

初代うさぎを失ってから、12年も経っていました。ある日、本屋で立ち読みしたうさぎ飼育本を見ているうちに、どうしてもうさぎを飼いたくなりました。そのときはまだ気がついていませんでしたが、初代うさぎを飼っているときに、うさぎを扱う仕事をしていました。その仕事については後述しますが、なんというか・・・後に恩返し?償い?のような感情を持ちつつ、なのはっちを育てていました。

その仕事のこともありますが、さらには初代うさぎをうまく育ててあげられなかった後悔、そして愛犬の最期を看取った悲しみ&後悔から、その悲しく辛い心の穴を埋めるかのように、なのはっちに愛情を注いだ気がします。

三代目うさぎ らんさん 享年推定10歳

らんさんは夫が飼っていたうさぎでした。結婚して、なのはっちとともに飼育することになりました。らんさんはちょっと他のうさぎと変わっていました。異常なほど人間を警戒するのです。

ホームセンターで売られていたらしく、そのホームセンターでは大きなケースの中に、多数のうさぎを一緒にしていたのだそう。らんさんは他のうさぎにいじめられていたらしく、ジバニャンのように耳に消えない傷がありました。

案の定、うちに来たときは警戒MAX。いつも怒っているように見えました。お食事やお掃除など、お世話するときには必ずなのはっちよりも先にするようにしていました。それでも落ち着きませんでした。日に日に気が荒くなり、ひどいときはケージのお掃除のために、広いサークルに出すことすら怖くてできませんでした。

ケージに手を入れると、あきらかに攻撃してくるのです。手のひらから腕までタオルをグルグルに巻いて、噛まれても大丈夫なようにしてドキドキしながらケージから出しました。もうどうにも怖くてできないときは、夫が仕事から帰宅するまで待って、夫に出してもらっていました。

ここまで気が荒いと、健康チェックなんてできませんでした。一度らんさんは癌で命を落としかけました。けれども手術で命をつなぐことができました。しかしその2年後、らんさんは旅立って行きました。

コミュニケーションが取れないと、手遅れになるまで気がつかないのです。明らかに様子がおかしい、いつも攻撃してくるのにしてこない。そうなってから病院へ駆け込みましたが、先生からは今夜が山といわれ、その通りになりました。午前2時過ぎに旅立ちました。私と夫、二人に見送られて。仕事が忙しくて不在がちの夫が家に帰っている午前2時。この時間を選んだの?と思うような最期でした。

動物(主にうさぎ)を扱う仕事歴 3年

20代、医療系の学校を卒業して初めて働いた職場は、医療用具や医薬品の研究室。そこで私は動物実験をしていました。扱った動物は、マウス、うさぎ、モルモットでした。入社前、私は動物実験とは具体的に何をするのか、あまりわかっていませんでした。動物が好きだったので、できそうだと思っていました。

けれども現実は厳しかったです。自分の心をしっかり持っていないと、ただ過酷なだけだったかもしれません。動物実験に対する賛否はあるでしょう。「賛」といっても両手を挙げて賛成する人はほとんどいないでしょう。「仕方ない」という意味での「賛」が多数かもしれません。

この経験に導かれるように、私はうさぎを飼うことになり、その後なのはっちの介護へとつながっていきます。詳しくは下に記しますが、動物実験の経験は私にとっては命を考えるきっかけとなりました。人間がペットとして飼う小さな命についてずっと長い間考え続けましたし、今もこれからもずっと考えていくと思います。

以下、細かい内容ですのでご興味のある方だけ読んでください。

動物実験に対する私の思い

私はできるだけ減らしたほうがいいと思いますが、ゼロになることはないと思っているので、動物実験に対して反対はしません。そういう考えにいたるまで、いろんなことを考えました。動物の命を使って人間の安全や命を守るのは人間のエゴ?とか、そもそもかわいそうじゃない?とか、残酷だとか・・・。

まず現場で働いた者として言えることは、少なくとも私の職場には動物を愛する人がたくさんいたということです。私がどんな気持ちで日々、職場の動物と向き合ってきたかというと、動物が痛がらないように、日々技術を磨くことを怠りませんでした。ケージから動物を出すとき、戻すときには、実験材料としてではなく、命ある存在として、丁寧に扱いました。確かに命を絶たねばならない実験もありましたし、実験が終わると処分される命です。それでも少しでも苦しみが減るよう、自分の手技に怠りがないか、間違いがないか、毎回考えていました。現場から離れて20年以上立った今、また同じ仕事をしたいかと聞かれると、もう二度としたくないです。

生きるものはすべて、他の命をいただいて生きている

けれども考えてみてください。そもそも、人間は他の生き物の命をもらわずに生きていけるのか?と考えると、答えは「No」なのです。それは人間だけかというと、それも「No」。すべての生き物はつながっていて、他の生き物の命をいただいて自分の命をつなぐのですね。そうしなければ生きていけない。だからこそ、感謝する。命への感謝。食事前に「いただきます」というのも、命に対する感謝です。それは人間のエゴでもなんでもありません。

確かにエゴといえる場面もありそうです。たとえばぜいたく品を楽しむためや、狩りなどをゲームとして楽しむためだけに生き物の命を奪う行為など。けれど動物実験は違います。人間の命・安全性を守るために、臨床試験(言葉は悪いですが要するに人体実験)の前にやむをえず行うべきものです。当然動物を使わない代替法を開発していく努力は、惜しみなくすべきだと私は考えます。

正解を求める必要はない 感謝の気持ちを忘れない

私には正解はわかりませんし、何が正しいというつもりも全くありません。ただ思うのは、自分の「種」を守ろうとするのは本能だと思います。人間なら人間を守ろうとするのは自然なこと。他の生き物もそうだと思います。人間は今地球上で生態系ピラミッドの頂点にいるから、他の生き物よりも力が強い。これは自然の摂理。無理したり過激になって自然に逆らわなくてもいいのでは?そしてなるようになっていく・・・というのが、今の私の精一杯の考えです。もちろん、人間には理性がありますから、それをフルに生かして人間の周りの環境、つまり地球環境という大きな視点で、打つ手を考えるべきであると思っています。

薬を飲む、注射もしてもらう、手術も必要とあればお願いする、お化粧もする、コンタクトレンズなどの医療機器も使うし、お菓子も食べるしお魚やお肉も美味しくいただきます。これらはすべてではないかもしれませんが、どこかの工程で、何らかの形で動物の命をいただいています。

生きのびることは簡単なことではありません。それは植物も人間を含む動物も同じ。だからこそ私は、罪悪感を感じながら生きるより、すべての命に感謝しながら生きたいと思います。

犬の介護と看取り

動物を扱う仕事から離れ、その後は化粧品開発の仕事をしましたが、そこも自己都合で退社しました。精神的に疲れ果てていたので、しばらく休養することにしました。ちょうどその頃、実家の老犬が、獣医からもうこの先長くないと言われていたので、最期を看取る決意でひきとることにしました。

動物病院へ通院することは、実は老犬には大きな負担でした。あるとき獣医師が、私に提案をしてくださいました。その提案とは、病院でする処置を、家でしたらどうかということ。つまり必要に応じて私が老犬に、皮下注射や点滴をしたらどうかという提案です。その場でお願いして病院で点滴の仕方、皮下注射の仕方の説明を受け、その後は死ぬまで家で私が老犬に点滴や注射をしていました。

最期はある日突然にやってきました。当時は老犬が亡くなったのは自分のせいだと強く思っていて、自分を責め続け、後悔ばかりしていました。獣医師から私のせいではないと言われても、納得できずにペットロスで3ヶ月ほど泣き暮らす日々を送りました。

この経験があって、なのはっちの介護のときは、後悔のない介護をしようと強く思ったのでした。

以下、細かい内容ですのでご興味のある方だけ読んでください。

今こそ家族のために

動物を扱う仕事から離れたあと、別の仕事に就きました。今度は化粧品などの開発をする会社で、私の部署で動物実験などは行われていませんでした。私の仕事はラボワークとはいえ、ほとんど机の上で報告書などを書く仕事でした。この会社は公用語が英語でしたので、報告書ももちろん英語で書かなくてはなりませんでした。書くだけではなく、話すのも読むのも聞くのも英語。もともとは英語が大の苦手でしたから、ここで働いた7年ほどが、今の私の英語力の基礎になっていると思います。まさか今、なのはっちのサイトを立ち上げて、英語のサイトからも有益な情報を得て発信することになろうとは、このときは想像すらしませんでした。

その会社でおよそ7年働きましたが、精神的にきつかったために退職し、しばらく休養することにしました。ずっと家にいるということで、実家の老犬を引き取ることにしました。丁度その頃、老犬がお世話になっていた動物病院で、獣医からこの先はあまり長くないということを聞かされていたのでした。だから引き取る=最期を看取る決意でした。

老犬は小型室内犬、ヨークシャーテリアです。名前は「むさし」。小さいので通院するのに連れて行くことは、さほど人間の負担にはなりません。けれども老犬むさしにとってはかなりの負担でした。心臓が悪く、腎機能も低下しており、貧血もあり、ときどきてんかん様の発作が起きていました。また、グルグルと円を描いて歩き回り、認知症の疑いもありました。

うちに来たときはまだヨチヨチ歩けていたのですが、すぐに歩けなくなりオムツをするようになりました。何度か立たせて自分でおしっこさせようと試みましたが、ついに全くできなくなりました。見る間に足腰が弱っていくのがわかり、辛かったです。それでもなんとか食べる意欲は持っていてくれました。もう普通のドッグフードは食べられないので、缶詰をあげていましたが、ついにそれも食べられなくなり、缶詰をさらにドロドロにして、シリンジで飲ませていました。食べられるものが、だんだん流動食みたいになっていくのが悲しかったです。

まだ何とか歩ける頃、獣医師が通院するにも犬に負担がかかるだろうから・・・ということで、自宅で点滴と注射をしたらどうかという提案をいただきました。

私はこの提案をお受けしました。自信があったからです。以前動物実験の仕事をしていたために、動物に注射をすることに対して恐怖心はありませんでした。

先生に点滴チューブのつなぎ方や注射の仕方を指導していただきました。これがとても良かったと思います。しばらくは病状も安定していたので、ほっとしました。けれども徐々に上に書いたように、食事が食べられなくなっていったのです。

いつもの通りお昼過ぎにシリンジで水をあげていると、様子が急変しました。てんかん様の発作かと思いましたが、何か違う。そうこうするうちに心拍が弱くなり、息をしているのかどうかわからなくなりました。抱きかかえてもぐったりしてぬいぐるみのようでした。そしてあっという間に息を引き取りました。

何がどうなったのか、あまりに急で頭が混乱しました。お葬式が終わり、獣医師に会いに行ってむさしが亡くなったことを伝えました。泣きながら報告し、感謝の気持ちを伝えました。でもその後、もやもやしていた感情がどっとあふれてきて、先生に言ってしまいました。

「むさしは私がお水を飲ませているときに容態が急変しました。だからむさしが死んだのは私のせいじゃないだろうか」と。私は水の飲ませ方を失敗し、気管に水が入り込んでしまったのではないかと思っていたのです。

先生は私に、「それはない」と断言してくださり、むさしはよく今までがんばった、本当に長生きしたんだからという言葉をかけてくださいました。それを聞いて、少しは落ち着きましたが、実はその後数ヶ月間は、自分を責めていました。

むさしが息を引き取ったときには、なのはっちはすでに家族の一員でした。老犬むさしが去った後、なのはっちの子宮内膜症や斜頸の闘病生活が始まりました。老犬のターミナルケアを通じて、私の中でいずれなのはっちも年老いて介護する日が来ると思うので、むさしのときのようにできるだけ家で見送ろうという思いが大きくなりました。

このサイトを立ち上げた理由

なのはっちが寝たきりになってからの期間は、とても長かったです。その間、いろいろなことを学び、考えさせられました。そのうちにこの体験を自分だけのものにするよりは、同じようにがんばっている方々を元気付けることができたらいいなと思うようになり、このサイトを立ち上げることにしました。

このサイトを作り、学びを記事にまとめることで、なのはっちとの絆もますます深くなっていったように思います。そしてなのはっちが天に召されたあとの、空虚になった私の心を満たしてくれたのもこのサイトでした。

今となっては思い出すのが辛い動物実験をした経験が、私に誠心誠意、なのはっちの介護に向かわせてくれたのかもしれないと思っています。罪滅ぼしといえば嫌な感じになっちゃいますが、なのはっちを大切にすればするほど、私の心は軽くなっていきました。

11年4ヶ月という兎生のほとんどが闘病でしたが、それを悲観的には考えていません。病気がちだったからこそ、気づけたことや学び感動したことがたくさんありました。なのはっちという小さなうさぎが、私の中では非常に大きな存在であり、大切なことを教えてくれたよきパートナーでもありました。

このサイトがあったから、記憶が風化せずに今もまだなのはっちは目に見える絆として、ここにいてくれます。これから闘病の記憶と懐かしい思い出と、うさぎ関連の話題で、このサイトを盛り上げていきたいと思います。どうぞお付き合いください。 (完)