最愛の存在を看取るのは、とてもとても辛いことですね。けれども愛してきたからこそ、旅立ちのときにも一緒にいたい。最愛のなのはっちを見送って感じたことを書くことで、同じように悲しく辛い気持ちを抱えた人の気持ちに寄り添えたらと思います。
この子は死の間際、苦しかったのだろうか・・・
私はこれまでに動物の命を2度、この手の中で看取りました。1度目は実家で飼っていたヨークシャーテリア。2度目はなのはっちです。
1度目のときは、ただただ後悔と悲しみしかなく、3か月ぐらい毎日泣いて暮らしました。ペットロスですね。「あの時こうすればよかった」とか「死んでしまったのは自分のせいではないだろうか」など、自分を責めたり後悔することばかりでした。
なのはっちのときは、あの時のようになりたくなくて、いよいよ元気がなくなってきたときに、覚悟を決め、気持ちの整理を始めました。それでも命の終わりを迎えるとき・・・やっぱり悲しかったです。
私はなのはっちを看取った後、後悔を残す余地のないほど介護をしっかりとしていたし、間もなく迎えるであろう死を覚悟していたはずなのに、どうしても引っかかることがありました。それは…
「なのはっちは旅立つとき、苦しかったのだろうか」という思いです。
もう後悔はしたくないから、できる介護を精一杯してきたつもりです。けれども命の終わり方を、私が満足いくように決めることはできないのです。仮にできたとしても、何をしても満足なんてできるはずもありませんね…
なのはっちが息を引き取る前に、口を大きくパクパクしたのです。それがどうしても気になって、調べてみました。すると、以下のようなことがわかりました。
死ぬときはどれくらい苦しいのか
たまたま検索で見つけたサイトがありました。医療法人徳洲会 新庄徳洲会病院のホームページに院長コラムがあって、そこに「死ぬ時はどれくらい苦しいのか」について、院長先生の考えが述べられていました。このような書き出しでコラムは始まりました。
「死ぬほどの苦しみ」と言いますが、死ぬときはどれくらい苦しいのでしょうか。読者の皆さん同様、私も死んだことがないので正確には分かりませんが、27年間に多くの命を看取った印象は「それほど辛さを感じていないだろう」ということです。
以下、コラムの内容を要約します。
死の間際、身体に何が起こるのか
死が近づくと呼吸が不規則になり、最期は下顎(かがく)呼吸と言って、口をパクパクさせて喘ぐような呼吸になります。この現象は、脳が酸素不足になるために起こるものです。このような状況になると、病院では症状を緩和するために酸素吸入を行うことが多いのです。しかしその行為が意味のあるものであるかについて、疑問がもたれています。
酸素不足になると、脳からエンドルフィンと言う麻薬の一種が出て恍惚状態になります。さらに呼吸が弱くなると血中の二酸化炭素が増えて、その麻酔作用により眠ったような状態になるのです。酸素吸入によって血中酸素濃度が上がり、データ上は良くなっても、患者さん本人の意識がない状態では、このような処置が、本当に苦痛を取り除けているのか、確認のしようがありません。
点滴にしても同じです。食事が摂れないからといって、点滴をすると身体の中の水分が過剰になり、むくむだけではなく、肺の中の水分が多くなり、おぼれた状態になってしまい、呼吸が苦しくなるのです。
いずれにせよ死が目前に迫ったときには余計なことはせず、自然な形で看取ってあげるのが一番楽に死ねる道だと思います。
ここまでがコラムの要約です。
出典:院長コラム「Vol.52 死ぬときはどれくらい苦しいか」 | 医療法人徳洲会 新庄徳洲会病院(2024.7.3参照)
最後に院長の希望 ― 「植物のように枯れてゆく最期が理想」とおっしゃって、コラムが終わっています。
死ぬときにする「口(くち)パクパク」の意味
このコラムを読んで、なのはっちの口パクパクはそういう意味だったのかと理解しました。人間もうさぎも、死ぬ間際の酸素不足による身体の反応は同じはずです。
思い返してみると、数日前からあれほど強かった食べる気力が弱くなっていました。死ぬ前日の夜ぐらいから、水を飲まなくなりました。
当日の朝からは食べ物も水も、全く口にしようとしませんでした。これまでどんな病気をしたときも、ここまで何も口にしたがらなかったことはありませんでした。
コラムの内容を合わせて考えてみると、まさになのはっちは「枯れるように死んでいった」のではないかと思いました。先にお月さまへ旅立ったうさぎのらんさんは癌の再発が原因でしたが、旅立ちの数日前から苦しそうにもがいたり、最期には聞いたことのない苦しそうな一声をあげて別れを告げたのでした。なのはっちは、らんさんのような壮絶な最期ではありませんでした。
旅立つ前の日から、口周りの皮膚が紫色になっていました。酸素不足によるチアノーゼであることはわかっていました。時々血色が悪い時がありましたが、何もしなくても回復していたので、今回もそうであって欲しいとかすかな期待を抱いていました。
次第に呼吸が弱くなり(その結果のチアノーゼ)、水もご飯も受け付けなくなり、最期は口をパクパクして・・・コラムに書かれているように、エンドルフィンの効果で恍惚状態(ぼんやりした意識しかない状態)と、血中二酸化炭素濃度の上昇により麻酔がかかったような状態になって、眠るように天に召されたのだと思います。
苦しまずに死んだとしても、悲しみは変わらない
自分で書いていておかしいのですが、なのはっちは死ぬ間際、苦しまなかっただろうかと気になって仕方がありませんでした。苦しまなかったとわかったなら、悲しみが癒されると思っていたけれど、そんなことはありませんでした。やっぱり最愛の存在を失った後、しばらくは痛いぐらいの喪失感は自然なことなのでしょう。
このトピックの最後に、私の結論を書きます。
その子が生きているときに、その子にできる限りのことをすれば、激しい後悔や自分を責めて苦しむことはなくなります。精いっぱい介護しようと思い、それができるのは、その子が大好きだから。
大好きな存在だから、目の前から姿が消えてしまうと寂しくて悲しくて泣けてしまうのは当たり前のこと。それだけ大好きだったってことなのですね。
もしも、これを読んでくださっているあなたが後悔してしまうことがあったとしたら…
今度そんな事態に遭遇した時に、その苦い気持ちを思い出して、次は心を込めて精いっぱい手を尽くせばいい。それが天に召された子への供養になると、私は自分の経験から感じました。
最愛の子を亡くした、悲しみにくれているすべての人に、癒しが訪れることを願っています。